雑談:過酷な道を選ぶのはなぜか

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こんにちは、砂糖次郎です。
季節は一足早い梅雨明け。でも雨は降っている模様が続く毎日。でも大丈夫。僕は山に行きます。

生きているとネガティブな要素はいっぱいある。つらい、きつい、暑い、寒い。形容詞でいっぱいのネガティブさ。
それで山を走るなんて、きつさの象徴ですよね。楽しいことは欠片ぐらいしか見つからない。だからよくそこまで走らない人やまったく走らない人に「なんで走るの?」なんて聞かれることが多数あります。自分もたびたび聞かれますが、特に最近、初心者ランナーに接することが多く、さらに多数に聞かれます。
その度にその時のフィーリングで答えていたんですが今一度腰を据えて考えて見たいと思います。

それで何を話そうというと、まず「理解」って言葉から。例えば自分は麻婆豆腐を作るのが得意ですが、料理をあんまり作らない人にはハードルが高い。つまり麻婆豆腐の作り方を理解していないからですね。じゃあ具体的にハードルを上げていくとまず材料を揃える、手順に従って料理を作っていくだけなんですが、人それぞれでまず材料を揃えるのにハードルが高い人や、手順を書いたものを読むのに、ハードルを感じる人、実際に作っていくことにハードルを感じる人など、要素を細切れにすればするほどハードルがあるんですよね。ハードルの数だけ「理解」が遠い。理解し難いんですね。

それで一度作った麻婆豆腐、作り慣れた麻婆豆腐、プロがつくる麻婆豆腐など。慣れない人から探求し尽くした人まで味わいにも違いがあるように、理解にも深さがある。一度理解しても深さという部分でハードルがありそうですよね。特に現代は外食が一般的ですので自分でつくるよりも幾ばくかの料金を払ってプロが作ったものを食べる方が手軽。手軽だからこそ「理解」も遠くなるんですね。

これをトレランに当てはめていくと、まず運動の経験がない人は走る行為そのものにハードルがある。そのハードルを越えても、距離や時間などうんざりするほど遠いハードルがある。トレランをやろうとすると山をある程度理解しないといけないというさらにさらに多くの要素のハードルがあります。

普段、生きているだけで精いっぱい。だから、多くの人にとって多くのハードルの向こう側にいる人は理解し難いんですね。その距離も分からないほど。

それでなんで過酷な道をあえて選ぶかといえば、シンプルに答えれば「やりたい」から。
その言葉さえあれば自分は納得できます。つらい練習も重度の疲労感もやりたいからで前に進める。

自分は長く哲学を学んでいて理由というのは後付けでしかないと思ってます。まず意志があって社会や自分を納得させるのに理由が必要なんです。なんといっても人間は社会的な一面を持たざるを得ませんから

だから自分は他の人を納得させられるほどの理由はあんまり持っていません。達成感の格別さとか興奮したり焦ったりする起伏のある道と感情の起伏が良いとか、仲間との一体感とか人の数だけとは言いませんが、多くの理由があるかと思います。

過酷な道はネガティブな要素に見えます。ただやりたいという意志を持っている人にとってはネガティブさもポジティブさに変換していけるのかもしれませんね。だから過酷ってネガティブワードに聞こえるかもしれませんが、味わい深いとっても楽しいものだと思います。



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