【はじめに】
Facebookを眺めていたら、
中高生向けの陸上・ランニングクラブの勧誘広告が流れてきた。
主に3000mなどのトラック種目を想定した内容で、
対象は部活や勉強で忙しい中高生。
「限られた時間で、いかに効率よく速くなるか」
という文脈の広告だった。
内容をざっくりまとめると、こんな感じだ。
・学生時代は月間600km走っていたが、今は100km台
・それでも3000mの自己ベストは更新している
・そこから導かれる結論は「距離信仰の限界」
・大事なのは量ではなく、効率や科学
・忙しい中高生こそ「質」で戦うべきだ
言っていること自体は理解できるし、
3000mランナー向けの話として読めば、かなり納得感もある。
ただ、その中に出てきた
「距離信仰」という言葉に、少しだけ引っかかった。
【「不安を消すために距離を踏む」という説明】
広告の中には、こんな表現もあった。
『不安を消すために、ただひたすら距離を踏んでいた』
この感覚は、多くのランナーに心当たりがあると思う。
僕自身も、似た時期があった。
ただ、ここで少し立ち止まって考えてみた。
本当に“不安だった”のだろうか。
不安の正体は、言語化できていなかっただけでは?
もし本当に不安だったなら、
人はだいたい疑い続ける。
・この練習で合っているのか
・もっと違う刺激が必要なんじゃないか
・距離だけで足りるのか
本気で自問自答していたなら、
「距離だけを踏み続ける」状態にはなりにくい。
もしかすると、
不安だったというよりも、
・練習を評価する軸が少なかった
・距離しか“測れるもの”がなかった
・感覚を言葉にする文化がなかった
そういう状態だっただけなのかもしれない。
距離は、
唯一わかりやすい指標だった。
【「距離信仰」という言葉の便利さ】
「昔は距離信仰だった」
「今は効率や科学だ」
この対比は、とても分かりやすい。
分かりやすいがゆえに、
過去の自分をきれいに整理できてしまう。
でも、距離を踏むことは本来、
・身体を作る
・疲労に慣れる
・長く動き続ける感覚を覚える
という、ちゃんとした意味を持っている。
それを後から
「信仰」という言葉でまとめてしまうと、
少し雑な説明になってしまう気がした。
【僕たちは3000mランナーではない】
3000mという種目の話として読めば、
「量より質」という主張はとても納得できる。
短い時間で、
正しい出力を出すことが何より重要だ。
ただ、
このブログを読んでいる多くの人は、
中高生の3000mランナーではない。
社会人になって走っている人も多いし、
フルマラソンやロードレースが主戦場の人もいる。
その場合、
距離を踏むことは避けて通れない。
それは信仰ではなく、
競技特性とライフスタイルの話だ。
【結論:距離も質も、選んでいい】
距離は万能ではない。
質も当然必要だ。
でも、社会人ランナーには、
もう一つ大きな自由がある。
・今日は距離を踏む日
・今日は刺激を入れる日
・今日は何もしない日
どれを選んでもいい。
問題は、
距離を踏んだかどうかでも、
質の高い練習をしたかどうかでもなく、
それを自分の言葉で説明できるかどうかだと思う。
距離も質も、手段でしかない。
信仰にする必要はない。

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