雑談:なぜ人は「報われる保証がない挑戦」に心を動かされるのか

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ランニングをしていると、
「人が頑張っている姿に感動する」という言葉をたまに耳にする。

自分もその気持ちには賛成だ。
テレビ越しのフルマラソンを見て、胸が熱くなることはある。
ただ毎回心動かされるかというと、そういうわけではない。

じゃあ、なにが違うんだろう。
なぜ心が動くときと、そうでないときがあるんだろう。
ちょっと考えてみました。

心が動かされる理由の一つは、「走る人の背景」



はっきりした答えは出ていないけれど、
走る人の背景が見え隠れすると、その人に乗っかれる。
家庭が大変だけど、ランニングを拠り所としている人。
挑戦をしたくて、初マラソンに挑む人。
研鑽を積み重ねて、レースを走る人。

そういった背景が見えて、その走りが見えると感動できる気がする。


フルマラソンは、心が折れにくい競技だと感じている



フルマラソンは、もちろんきつい。
それは間違いない。

ただ、自分自身がこれまでそれなりに辛いレースに出てきたせいか、
フルマラソンは「心が完全に折れる瞬間」は、実は少ない競技だとも感じている。

・終わりが見えている
・社会的な意味が最初から共有されている
・「ここを越えれば終わる」という物語がある

苦しいのは確かだけれど、
自分を納得させながら走り続けることができる。

だからテレビ越しに見ていても、
速さに驚嘆することや感動することはあっても、
数でいうと少ない。

これはフルマラソンが劣っているという話ではなく、
競技として、完成度が高いということなんだと思う。
そういった背景がなく、純粋に競い合うってものだけで成立している。

ウルトラやトレイルで感じた、少し違う辛さ



一方で、ウルトラマラソンやトレイルでは、
フルとは少し違う種類の辛さを感じた。

距離が伸びるほど、
時間が長くなるほど、
「もう辞めたいな」という思考が、普通に頭に浮かんでくる。

・まだ半分以上残っている
・夜がなかなか明けない
・なぜ走っているのか分からなくなる

ここで起きているのは、
単なる身体の限界というより、
意味そのものが揺らぐ感覚だった。

しかも、
辞めるという選択肢が、常に現実的に存在している。

だからこそ、
続ける理由は、外から与えられない。
自分の中で、その都度つくり直すしかない。

一人の時間が、人を裸にする



さらにいうと、ウルトラやトレイルでは、一人で過ごす時間がとにかく長い。

応援も少ない。
順位も見えない。
誰かに見られている感覚も薄れていく。

残るのは、自分の思考だけ。

「立派な挑戦」も
「感動的な物語」も
一度、全部消える。

それでも進むかどうか。
それだけが、静かに問われ続ける。

だから、トレイルやウルトラは心動かされやすい



自分が心を動かされるのは、
ゴールの瞬間でも、結果でもない。

・辞めてもいい理由がいくつもある
・誰にも見られていない
・意味が宙ぶらりんになっている

そんな時間帯で、人が進んでいる瞬間。

それは、
近くで見ないと分からないし、
画面越しではなかなか伝わらない。





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