2026年2月12日付のRunnetの記事
「【連載:バックヤードウルトラ②】一見過酷な耐久ランニングがなぜ15年間で世界約80カ国に広まったのか?『1時間に6.7km』の不思議な魅力」を読んだ。
これまで自分は、ミチタロウくんの記事に注目してきたが、今回で連載の二回目になる。
読み終えてまず感じたのは、この競技をどう捉えるかという“視点”そのものを提示している点だ。単なる紹介ではなく、「どこを見るか」を問い直している。
記事の中には、こうある。
一見すると過酷な耐久ランニング。しかも、同じところを延々とぐるぐる走り続ける。これだけ聞くと、到底、面白そうには感じられないでしょう。でも世界中に広まり続けている。バックヤードウルトラが盛んなオーストラリアには、500名以上が集まる大会もあるのです。
なぜか? 理由は単純で、参加しやすいから。「最後の1人になるまで繰り返す」という部分こそ、ハードルの高さを感じさせますが、逆に言えば、やめたくなったらすぐやめられるという気軽さがあります。1時間に6.7kmさえ走れれば、仮に、走れなくとも、スタートラインに立つことはできます。
この「参加しやすい」という切り口は新鮮だった。
レースと聞くと、多くの人は「どこまでやれるか」という限界に目が向く。記録、順位、完走タイム。だがこの記事は、その枠を一度外す。限界への挑戦だけが価値ではない、と。
日本のランナーは、いわば「改善型」で走っている。
2024年に『ランナーズ』が行ったアンケートでは、ランニングを続けるモチベーションの上位は、
・大会出場のため
・健康維持のため
・記録を更新したいため
だった。
多くのランナーにとって、ランニングとは“更新”の営みだ。昨日より速く、前回より長く。その積み重ねが動機になる。
だからこそ、バックヤードウルトラを見るときも、私たちはまずこう考える。
何時間いけるのか。
何周走れるのか。
記録はどれくらいか。
それは自然な反応だ。
だが、それだけでは半分しか見えていない。
記事の言葉を借りれば、「速く走ることが重要ではない」。ここにあるのは、従来の記録競技とは異なる設計思想だ。
通常のレースでは、承認はタイムや順位に紐づく。結果が明確に序列をつくる。
しかしバックヤードでは、承認の軸が少しずれる。
毎時間、同じスタートラインに立つ。
走力や世代を越えて並ぶ。
脱落しても会場に残り、拍手を送る。
そこには「速さ」よりも、「居続けたこと」への価値がある。
競技でありながら、どこか祝祭的だ。
記事で描かれるオーストラリア大会の様子も、「ランニング好きが集まるお祭り」というニュアンスで紹介されている。過酷さと祝祭性が同居する空間。
この両義性こそが、バックヤードの核心なのだと思う。
とはいえ、まだマイナーだ。
「世界約80カ国に広がり」と書かれている。確かに国数で見れば広い。だが体感としては、依然としてニッチだ。国内開催も年間数大会規模。一般ランナーの認知度が高いとは言い難い。
爆発的普及というより、コア層に静かに刺さっている状態だ。
だからこそ、今が面白い。
価値観が固定される前の、揺れている段階にある。
記録競技として語られるのか。
コミュニティ型イベントとして広がるのか。
おそらく、どちらか一方ではない。
日本のランナーが持つ「改善型モチベーション」は、ここでも当然働く。やるからには挑戦したくなるし、どこまで行けるか試したくなる。
だが同時に、この競技は「その場に居ること」に意味を与える。
記録を狙う人もいる。
雰囲気を味わう人もいる。
数時間で終わっても、参加は成立する。
その両方を許容する設計だからこそ、過酷でありながら、どこか開いている。
バックヤードは記録競技か、祝祭か。
答えは、おそらく両方だ。
そして私たちは、まだその“祝祭としての側面”を十分に見きれていないのかもしれない。
だからこそ、この連載の続きを追いたいと思う。
知っている顔が書いているから、というだけではなく、この競技の輪郭が、まだ定まっていないからだ。

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