「初挑戦」は語られる。でも「継続」は背景になる
ランニング界隈では、こんな話はよく広がる。
初めてトレランを走った
初心者が過酷レースに挑戦した
制限時間ギリギリで完走した
苦手だった長距離を克服した
こういう話は、多くの人の心に残る。
一方で、
「今年もいつものレースを走って、無事完走しました」
という話は、意外と流れていく。
でも、やっている行為自体はどちらも“走ること”だ。
なのに、受け取られ方はかなり違う。
人は「変化の物語」を強く記憶する
たぶん理由はシンプルで、人は“変化”に反応しやすい。
未経験だった人が挑戦する。
できなかったことが、できるようになる。
不安だった人が、最後に達成する。
そこには、わかりやすい物語がある。
いわゆる「ビフォー→アフター」だ。
だから、
「初フルマラソン完走」
「人生初トレラン」
「初心者が100km挑戦」
みたいな話は、強く共有されやすい。
でも、本当は「維持」のほうが難しいこともある
ただ、長く走っていると、だんだん別のことに気づく。
毎年同じレースに出ることって、実はかなり難しい。
故障する。
仕事が変わる。
家庭環境も変わる。
加齢で回復も落ちる。
気持ちも上下する。
その中で、
「今年もスタートラインに立てた」
というのは、単なる惰性ではなく、かなり多くの条件が揃った結果だったりする。
特に市民ランナーは、競技だけで生きているわけじゃない。
生活の中で、走る場所を残し続ける必要がある。
だから「今年も出られた」は、本当はかなり繊細な成果だ。
月例レースは「更新」より「接続」に近い
自分にとって月例レースは、タイム更新だけの場所ではなくなってきた。
去年の自分。
数年前の自分。
走れていた時期。
崩れていた時期。
そういうものと、また接続する場所に近い。
別に毎回ドラマがあるわけじゃない。
速くもない。
劇的でもない。
SNSでバズる話でもない。
でも、
「今年もここを走った」
という事実には、案外いろんなものが含まれている。
継続の価値は、意外と発見されていない
たぶん多くの人は、頭ではわかっている。
継続が大事。
続けることは難しい。
健康を維持することにも価値がある。
でも、その価値を“物語として実感する機会”が少ない。
社会はどうしても、
初挑戦
劇的変化
成功体験
限界突破
みたいなものを強く照らす。
だから逆に、「壊れず続いている」という状態は、見落とされやすい。
けれど、長く走っている人ほど、そちらの重さを知っている気がする。
だから、自分は継続を書くのかもしれない
速くなった話でもない。
人生が激変した話でもない。
それでも、
今年も走った
また月例に来た
崩れながらもゼロにはならなかった
走る場所を生活の中に残せていた
そういうことを書き残していく。
たぶんそれは、「継続にも価値がある」と主張したいというより、自分自身がその価値を再発見したいからなんだと思う。
走ることは、いつか特別なイベントではなくなる。
でも、特別じゃなくなったあとにも残っているもののほうが、実は長く人生に効いてくる。

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